家族というのは大切な存在です。一生添い遂げるパートナーや兄弟、親とともに暮らすことは、幸福の源泉であり喜びの源泉となります。しかし、あくまでも他人であって「私自身」ではありません。
ですので、たとえ親や兄弟からから「もっとちゃんとした仕事に就け」「そんな女性とは付き合うな」「お前のためを思って言ってるんだ」などと言われても、そんな指示に従う必要はないよねって話です。
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1.かけがえのない「家族」
家族ってのはかけがえのない存在です。生みの親は2人しかいませんし、共に育った兄弟だって何十人もいるわけではありません。仕事がクビになったり事業に失敗したりして、友人にも恋人にも頼れない状況の中で、唯一頼れるとしたらやはり、親や兄弟ということになるのでしょう。
自分にもっとも近い存在であるからこそ、プライベートにずかずか入り込まれてイヤになることだってあります。でも、逆に言えば自分の性格を誰よりもわかってくれている人であり、もっとも深く理解し合える人間です。もしかすると、自分と家族とを天秤にかけた時、自分よりも家族を優先してしまうほど家族を大事に思う人もいるかもしれません。
だって、家族には替えがききませんから。友人や親友は、極端な話また新しくつくることが可能です。恋人だって新たに探すことは難しくないでしょう。しかし、家族となると話は別。「新しい母親を探そう」なんて、たとえそう願ったとしてもできません。義理の父母はできるかもしれませんが、血のつながった母親はひとりだけであり、父親もひとりだけ。
「自分はどうなってもいいから、とにかく親へ恩返しをして、幸せになってもらいたい」と願う子どもの気持ちも、そう考えるとわからなくもありません。
2.かけがえのない「私」
しかし、親や兄弟よりもさらにかけがえのない存在がこの世に存在します。
「私」です。
人類のうちその他大勢よりも「家族」は別格の扱いです。しかし、家族のうちでも「私」は「私」にとってさらに別格な存在であり、この世でもっとも大事な存在です。「命」と言い換えてもいいでしょう。だれだって命と引き換えにお金をもらおうとか、地位を得ようなんて考えませんよね。
「私」という存在があって命があるからこそ、家族への愛情を感じることができます。親が死んでしまった時、泣いて悲しめるのも「私」という存在があって命があるからこそです。家族よりも「私」が上位にランクするのは疑いの余地はないでしょう。
3.「お前のためを思って言ってるんだ」への反論
しかし「私」はしばしば、「私の人生」ではなく「家族が望んだ人生」を歩んでしまうものです。要するに、自分のやりたいことや望む進路ではなくて、親の望む学校への進学や会社への就職をしてしまうことですね。「私」がそれを拒否しようとすると、高い頻度で「お前のために言ってるんだ」と厳しく諭されます。
異性を親に紹介した時に「そんな人はやめろ」なんて言われたり、大人になってもアルバイトや契約社員で働いていると「さっさと正社員になれ」などと言われた経験がある人は少なくないものです。
ですが、強要することのないアドバイスならともかくとして、人生を左右するような重要な決定でないならともかくとして、親という「他人」に自分の人生をそこまで決定されるのは正しいありかたなんでしょうか?そもそも自分の人生なんだから、自分がどう生きるかを決めていいはずです。
だから、もし私が「お前のためを思って言ってるんだ」などと言われることがあったら、こう反論することにしています。「その道を進んだとして、結果の責任は引き受けてくれるの?」と。つまり、親の望む職場で働いてうつ病を患ったり、好きだった人と別れた結果一生独身のまま人生を終えたとしても、その責任はあなたが全部背負ってくれるんだよね?と問い詰めるわけです。
まあ「何言ってるんだお前は」と感情的に逃げられるのがオチでしょうが、それでも親や兄弟からの干渉を防ぐ武器にはなると思っています。ちなみにこの「責任」っていうのは、アドラー心理学を解説した『嫌われる勇気』で出てくる話とも関連します。
4.アドラー心理学「課題の分離」をしよう
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと——あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること——によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
『嫌われる勇気』では、対人関係の悩みを解決するための方法として、「課題の分離」を説明しています。課題っていうのは、つまり対処すべき問題や選択のことですね。就職の例で言えば、どの企業に就職し、どんな仕事を志すのかは求職者本人(私)の課題であって、あくまでも親の課題ではありません。自分ですべき選択ということですね。
しかし、「子どもの幸せと成功を願うのは親の責任だ!」と反論される方もいるかもしれません。たしかに、親は子どもを養い、教育する義務があります。ですが幸せというのは人それぞれ違うものですし、親が敷いたレールの上だからと言って、成功する確率が高まるなんてことはないはずです。
「そんな女性はやめておけ」と干渉したところで、「私」はその女性とうまくいく可能性も、うまくいかない可能性が残されています。同じように、別の女性を選んだところでうまくいく可能性・うまくいかない可能性が出てきます。「こうするのが一番いいんだ!」と思える選択を促したところで、それが本人にとって一番いい選択なのかはだれにもわかりません。
だったら親の選んだ選択ではなく、「私」が選んだ選択でも別に問題はないでしょう。
誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
「子どもの幸せと成功を願うのは親の責任だ!」というのは、たしかに真実です。しかし、子どもの人生に過度に干渉してしまうのは、もはや親の責務でも何でもありません。ただ子どもを自分の支配下に起き、自分の思い通りに動かそうとしているだけです。
じゃあその違いをどう見分ければいいの?って話になるわけですが、ここでヒントになるのが『嫌われる勇気』の記述です。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考え、それが誰の課題なのかを知れば、過干渉を控えることができます。
「私」にとってみれば、「最終的に不幸になるのもみじめになるのも自分の責任なんだから、勝手にさせてよ!」という反論にもつながります。こうして「課題の分離」を進めれば、家族だからといって過干渉したり、親の言うことを聞かなかったことに対して罪悪感を感じることも減ることでしょう。
5.私の人生は私が選び、私が責任を負うべきもの
自分の人生は自分で選び、その結果起こったことの責任は自分で背負うべきです。人生の選択を他人任せにしたり、結果をだれかのせいにしてはいけないよ、ってことです。
責任を負うのは大変なことですが、大人になると責任と自由はセットになってついてきます。責任ある仕事をまかせられるようになると、お金や時間の面で優遇されるのが企業というものです。同様に、「自分の人生は自分で決める!」と責任を負う覚悟をすれば、家族を含め他人の言うことなんて気にせず、自由に生きられるようになります。
せっかくの一度きりの人生です。責任は重くとも、自由に生きましょう。
まとめ
- 家族は結局他人であって、「私自身」ではない
- 「課題の分離」によって、対人関係のトラブルを減らすべし
- 人生を自分で選ぶことには責任がともなうけど、だれにも干渉されない自由も得られる
というわけで、今回言いたかったことは「親なんて他人なんだから、自分の好きなように生きようぜ!」ってことでした。ずいぶん回り道をしてしまいました。
まあ、家族ってのは自分と一番長く生活をともにしている存在ですし、言うことを聞きたくなる気持ちも、反発したくなる気持ちも当然ですよね。でも、「結局は家族も他人!」と考えられるかどうかで、人生の満足度って上がるように思うんです。
親の言うことに逆らって人生を歩んだとしても、「どうせ他人の言ったことだし」で片付ければ、罪悪感もストレスも感じないでしょうし。「赤の他人」ではないのはたしかですが、「他人」ではある親や兄弟。そんな存在に縛られることなく、自由に生きたいですね。
以上、『自分の人生の責任は自分で背負い、だれからも干渉されない自由を手に入れよう』という記事でした。