物心ついた時から自分で作る生活に
今でこそこうやって記事にできる出来事ではあるんですが、私は幼少時代、親に食事を作ってもらえた記憶がほとんどない人間だったりします。小学3年生くらいになったら「自分で米を炊け」と炊飯の仕方を教わり、毎日卵を焼くなりチャーハンを作るなりして朝晩の食事を用意していたんですね。
というのも、私が育ったのは5人兄弟の7人家族という家庭。一時期は兄弟全員が児童相談所に預けられることもあったほど、問題を抱えた特殊な家庭環境だったという背景があります。
もちろん休みの日に父親が鍋料理を作ってくれたり、高校に上がってからは昼のお弁当を母親が用意してくれたりしたので、100%親が食事を作ってくれない環境ではなかったものの、毎日母親がご飯を用意してくれるドラマや映画の世界に大きな違和感を抱いていたものでした。
大学以降は普通に自炊して失敗し、今に至る
そんな子ども時代を人に話すと、「大変だったねえ」「立派に育ったんだね」なんてことを言われるんですが、そんな感想が出てくる原因として「親が食事を作らない家庭で育ったら、ろくな人間にならないはず」という思い込みがあるんじゃないかと思います。
普通の家庭のように親から愛情を注いでもらえなかったせいで、非行に走ったり、パチンコとタバコに明け暮れるロクでもない人生を歩むことになるんじゃないか、みたいな。
ところが私個人の経験ではそんなことはまったくなくて、一人暮らしを始めた大学時代にも、張り切って自炊をスタートするものの、1週間くらいで飽きてコンビニ弁当メインの生活になる…っていうあるあるを経験したほど。
今でも「親が食事を作ってくれる家庭なんてうらやましいな〜」って気持ちはあるものの、親が食事を作ってくれなかったからといって、食事に対して苦手意識を持ったり、両親に対して強い恨みを持ったりすることはないんですよね。
「原因論」に立たずに生きよう
ここで何が言いたいのかというと、「親が食事を作ってくれず、愛情が注がれなかったからダメ人間になった」のような原因論に立つことなく生きようってことです。『嫌われる勇気』で出てくる考え方ですね。
「親が食事を作ってくれなかった」という過去の出来事は変えることはできませんが、「でも、そのおかげで食事の大切さがわかった」ように、出来事への解釈を変えることはできます。
私もこれまで「何もかも両親のせいだ」と考えるのではなくて、「この両親から離れるためにはどうしたらいいんだろう?」と考えて、地元の新潟から横浜の大学を目指したりしましたし。
もちろん親のネグレクトを推奨するわけではありませんが、「家庭環境に恵まれなくても、こんな生き方をしている人がいるよ」「原因論を放棄すれば前向きに生きられるよ」ってモデルケースとして参考にしてもらえれば幸いです〜。